HISTORY

"MR PUMA"
HELMUT FISCHER

私は1978年からプーマに勤めており、現在は上級顧問として、これまでの経験をプーマの若手世代に伝えています。
以前は、2009年から2012年までプーマドイツのスポーツマーケティング部門の責任者を務めていました。その前は、プーマドイツの広告部門の責任者でした。
今回、みなさんにプーマ史に残る重要な出来事をいくつかご紹介することができ、非常に光栄に思っています。
世界最速のスポーツブランドであるプーマ、その魅力を際立たせる数々の逸話を是非お楽しみください。

1924

ルドルフとアドルフのダスラー兄弟が、ドイツのヘルツォーゲンアウラハに“ダスラー兄弟製靴工場”(Gebruder Dassler Schuhfabrik)を創立しました。

最初の商業的成功:1928年にアムステルダムで開催された夏季スポーツの祭典において、大多数のドイツ人アスリートがダスラー製のスパイクを着用しました。1936年にはジェシー・オーエンスがダスラー製スパイクを履き、ベルリンで開催された夏季スポーツの祭典で4つの金メダルを獲得しました。最終的には、ダスラー製のシューズを着用した世界トップクラスのアスリートたちが7つの金メダルと5つの銅メダルを獲得し、2つの世界新記録と5つの大会記録を樹立しました。この出来事は、ダスラー兄弟に国際規模の成功につながるきっかけを与えました。

1948

ルドルフ・ダスラーが、プーマシューファブリック・ルドルフ・ダスラーを創立しました。この会社は、1948年10月1日に正式に登記されました。“ダスラー兄弟製靴工場”の事業資産は、2人の兄弟の間で分配されました。

同年、プーマ初のサッカースパイクである“アトム”が発売されました。当時の西ドイツ代表選手の数名がプーマのスパイクを着用し、1950年に開催された世界大戦後初の試合であるスイス戦の試合に出場しました。ヘルベルト・ブルデンスキもその一人であり、彼は西ドイツにおける戦後初ゴールを決めた選手であり、この試合の決勝ゴールを決めた選手でもあります。

50s

1952

会社創立後間もなく、ルドルフ・ダスラー(写真左)は、当時の西ドイツ代表監督であるセップ・ヘルベルガーなどの専門家と共に、ねじ込み式スタッドを備えたサッカースパイクの開発に成功します。1952年には世界初のねじ込み式スタッドスパイクである“スーパーアトム”を発売し、サッカー界におけるプーマの輝かしい歴史をスタートさせました。

1953

ねじ込み式サッカースパイク“スーパーアトム”の後継モデルの開発とテストが続けられ、遂に進化モデルである“ブラジル”が発売されました。

1954

1954年5月にドイツブンデスリーガのハノーファー96が、最終戦でFCカイザースラウテルンを降し、リーグ王者に輝きました。ハノーファー96の大多数の選手は、プーマの“ブラジル”を着用していました。プーマは、“So war es in Hamburg”というメッセージと共に広告キャンペーンを行い、この勝利を祝いました。

また、陸上競技においても、プーマは大きな成功を収めました。プーマのランニングシューズを履いたハインツ・フュッテラーが、日本の横浜で100メートルの世界記録を打ち立てたのです。その4年後、フュッテラーは4×100メートルリレーにおいて、再び世界記録の樹立に成功しました。

1957

ルドルフ・ダスラーがプーマの書体をサンセリフ体にし、新しい文字デザインとロゴマークを導入しました。その翌年、2番目のロゴマークが特許を受けました。プーマの有名なフォームストライプは、当初シューズ内部の足を安定させるために考案されました。今ではプーマを表す象徴的なデザインとなっており、ほぼ全てのプーマシューズに使用されています。また、このフォームストライプは、アパレル製品においても、デザイン要素として用いられています。

1958

プーマは、自社のトレードマークロゴと有名なフォームストライプを導入しました。同年、プーマのサッカースパイクは、スウェーデンで開催されたサッカーの祭典において、唯一のドイツ製サッカーシューズとなりました。プーマは、ブラジル代表の勝利を祝い、広告キャンペーンを行いました。

60s

1960

プーマのパートナーであるアルミン・ハリーがローマで開催された夏季スポーツの祭典の100メートルで金メダルを獲得し、陸上競技におけるプーマのサクセスストーリーに更なる記録を追加しました。同年、プーマは、スポーツシューズメーカーとしては世界で初めて、技術的に高度な加硫生産技術を導入しました。この技術により、シューズの靴底と靴軸の結合が可能となりました。この技術革新により、プーマアスリートたちは、更なるパフォーマンスの向上が可能となりました。

1962

チリで開催されたサッカーの祭典において、プーマスパイクを着用したペレがブラジル代表と共に2大会連続となる優勝を飾り、大会MVPに輝きました。

1964

東京で開催された夏季スポーツの祭典において、ベルギーのガストン・ローランツ(3000メートル障害競走)とイギリスのマリー・ランド(走り幅跳び)、そしてエチオピアのアベベ・ビキラ(マラソン)が、プーマシューズを着用し、見事金メダルを獲得しました。

1966

イングランドで開催されたサッカーの祭典において、ポルトガル代表のスーパースターであるエウゼビオが、当時のニューモデルであり、伝説的モデルであるプーマキングを着用し、見事大会得点王と大会MVPに輝きました。キングモデルは、くるぶしの防御性を高めると共に、柔軟なレザーを用いることで、より優れたボールコントロールを可能にさせました。

1967

跳びはねるプーマを模したプーマのロゴマークは現在世界で最も有名なロゴマークの一つになっていますが、このロゴマークはニュルンベルク出身の漫画家であるラッツ・バッキーズによって生み出されました。製品ラインナップはシューズだけに留まらず、スポーツウェアも含まれるようになりました。プーマのロゴマークはより頻繁に製品に用いられるようになり、パフォーマンスアパレルやバッグにも付けられるようになりました。

1968

“サクラメント”ブラッシュスパイクの登場は、その革新的なブラッシュソールで多くの人々を驚かせました。このモデルには、長さ4ミリしかない小さなブリストルがシューズ前方部に68もデザインされていました。メキシコ大会まで数週間と迫る時期に、このスパイクを着用した多くのアメリカ人アスリートが、次々に世界記録を樹立しました。しかし、大会委員会の決定により、このスパイクは“あまりに危険すぎる”と見なされ、使用禁止となってしまいました。

このスパイクを着用して打ちたてられた全ての世界記録は、残念ながら取り消されてしまいました。この一件については、未だ再調査が行われていません。しかしながら、プーマアスリートであるトミー・スミスは、サクラメントの類似モデルを着用し、200メートルで金メダルを獲得しました。そして、センセーションを巻き起こしたのです。スミスはチームメイトであるジョン・カーロス(銅メダル)と共にブラックパワーサリュート(黒人の存在を誇示するパフォーマンス)と呼ばれる拳を高くあげるパフォーマンスを行い、アメリカにおける黒人と他のマイノリティーに対する差別やアパルトヘイト、そして人種差別に抗議したのです。トミー・スミスだけでなく、リー・エヴァンス(400メートル、5×400メートル)とウィリー・ダベンポート(110メートルハイハードル)、そしてボブ・シーグレン(棒高跳び)も、プーマシューズを着用し、金メダルを獲得しました。

70s

1970

プーマキングを履いたペレは、ブラジルを三度目のサッカーの祭典での優勝に導き、自身も再び“大会MVP”に輝きました。この優勝から30年後、ペレは正式に“20世紀の偉大なサッカー選手”の第1位に選ばれました。 1970年のプーマキングは革新的な平板構造を備えており、それにより、更なる軽量化が実現しました。柔軟性と快適さを向上させるため、初めてカンガルーレザーが採用されました。

1972

プーマアスリートであるアメリカ人のメアリー・ピーターズ(5種競技)、ウガンダ人のジョン・アキ=ブア(400メートルハードル)、アメリカ人のランディ・ウィリアムス(走り幅跳び)、西ドイツのクラウス・ヴォルファーマン(やり投げ)が、ミュンヘンで行われた夏季スポーツの祭典で金メダルに輝きました。

1973

バスケットボールのウォルト・“クライド”・フレイジャーがバスケットボール界で大躍進を遂げ、コート外でもその鮮やかなファッションにより、一躍有名になりました。フレイジャーがプーマにスウェードモデルのカスタムメイドを依頼した際、プーマはオリジナルのデザインを見直し、より軽く、より大きくデザインを変更し、更に、フレイジャーのあだ名をシューズサイドに追加しました。これが、プーマのクライドモデル誕生の瞬間です。フレイジャーは、独自のフォームストライプとフェドーラ帽、そして長いもみあげと共に、自身のクライドモデルを履きこなしていました。

1974

ドイツで行われたサッカーの祭典では、プーマシューズを着用したヨハン・クライフが“大会MVP”に選ばれました。また、クライフは、2年連続で“欧州年間最優秀選手賞”に選出されました。当時、オランダ代表チームは、別メーカーによる3本ストライプが描かれたオレンジ色のユニフォームを採用していました。チームキャプテンであるヨハン・クライフはプーマアスリートであり、プーマに対して特別な感情を抱いていました。そのため、彼は、他のメーカーのユニフォームを着用して試合に出場することを拒否したのです。そんなクライフのために、彼専用の2本ストライプが描かれたカスタムメイドユニフォームがデザインされました。これが、クライフ伝説の始まりとなったのです。

1977

テニス界においても、プーマはトップアスリートのサプライヤーとして名声を築き上げていました。1977年にプーマシューズを着用したアルゼンチン人のギレルモ・ビラスが、全仏と全米、そして全豪オープンを制覇したのです。

1979

1979年以降、プーマロゴはワードロゴの右上で跳びはねていましたが、この数年でこのロゴにも僅かな変更が加えられました。現在のデザインでは、目と顔のしぐさがなくなり、耳が以前よりも強調されています。世界的に有名なプーマの“ナンバー1ロゴ”の完成です。

80s

1982

アルゼンチン人であるディエゴ・アルマンド・マラドーナが、プーマの新しいモデルであるトレロスパイクを着用し、自身初となるサッカーの祭典出場を果たしました。トレロは創設者ルドルフ・ダスラーの息子であるアルミン(写真)が開発したシューズであり、2箇所のジョイント部分を持った極めて柔軟なデュオフレックスソールが採用されています。

1984

ロサンゼルスで行われた夏季スポーツの祭典において、プーマのスパイクを履いたエベリン・アシュフォードが、2つの金メダルを獲得しました(100メートル/4×100メートル)。また、ドイツ代表団の式典用ユニフォームも、プーマによって提供されました。

1985

17歳のボリス・ベッカーと彼が記録した1985年ウィンブルドン大会における劇的な優勝により、80年代はテニスブームに彩られました。ベッカーは、プーマシューズとラケットを身に着け、史上最年少かつ史上初めてシード外から優勝を飾り、更に、ドイツ人として初めてウィンブルドンを制覇しました。また、ベッカーは、最初にミッドトップシューズを着用したテニス選手の1人でもあります。ベッカーは、プーマと共に足首への負担を軽減する自身専用モデルを開発し、コート上でよりリスクのある動きを可能なものとしました。

プーマは、1984年から1987年まで、当時の世界最高女子テニス選手であるマルチナ・ナブラチロワとも契約を結んでいました。

1986

プーマは株式を公開し、“プーマAG(株式会社)”となりました。プーマの株式は、ミュンヘンとフランクフルトの証券取引所で取引されました。プーマのCEOであり、創設者ルドルフ・ダスラーの息子であるアルミン・ダスラー(中央)は、取締役会の同僚と共に、自社の株式公開を祝いました。

サッカー界では、1人の選手が世界中の注目を独占していました。初めて出場したスペインでのサッカーの祭典から4年、ディエゴ・アルマンド・マラドーナは、サッカーの祭典メキシコ大会準々決勝のイングランド戦において、2得点目のゴールでサッカーの歴史に新たな1ページを追加しました。マラドーナは11回のボールタッチで6人の相手選手をかわし、“世紀のゴール”を挙げることに成功したのです。マラドーナは大会MVPに選出されると共に、アルゼンチンに1978年以来2度目となるサッカーの祭典における優勝をもたらしました。この活躍により、彼はゴールデンボール賞も受賞しました。マラドーナは大会全試合に出場し、その全ての試合でキングモデルを着用しました。

90s

1990

プーマキングを愛用するローター・マテウス率いるドイツ代表が、イタリアで開催されたサッカーの祭典で優勝を果たしました。代表チームのキャプテンであるマテウスは、“欧州年間最優秀選手賞”と“世界年間フットボーラー賞”、そして“世界最優秀スポーツ選手”に選出されました。

1991

プーマのトライノミックテクノロジーは、1989年にランニング界において、初めて具体化されました。この技術はクリアーラバーヘキサゴンセルを採用しており、クッション性と柔軟性、安定性を向上させることができます。プーマのディスクモデルをはじめ、トライノミックを採用した製品を用いることにより、多くのアドバンテージを得ることができます。1991年に発売されたディスクは、世界初の靴紐のないスポーツシューズであり、内部にあるワイヤーにより、足の甲に完璧なフィット感をもたらすことができます。

1992

バルセロナで開催された夏季スポーツの祭典において、ドイツ人であるハイケ・ドレクスラー(走り幅跳び)とディーター・バウマン(5000メートル)、そしてイギリス人であるリンフォード・クリスティ(100メートル)が、プーマスパイクを着用し、見事金メダルを獲得しました。

翌年にシュトゥットガルトで開催された世界陸上において、“プーマ四天王”であるドイツのハイケ・ドレクスラー、ジャマイカのオリーン・オッティ、そしてリンフォード・クリスティとコリン・ジャクソン(両者共にイギリス)が、金メダルに輝きました。

1993

ヨッヘン・ザイツが30歳でCEOに指名され、ドイツ史上最年少で株式会社を率いることになりました。当時会社は経済的に難しい時期にありましたが、ザイツはプーマ再建の先頭に立ち、低価格ブランドからプレミアムスポーツライフスタイル企業へと会社を変貌させ、プーマをスポーツ製品産業においてトップ3の企業にまで押し上げました。

1996

アトランタで行われた夏季スポーツの祭典において、プーマはユニークなコンタクトレンズを用い、話題を呼ぶプロモーション活動を行いました。リンフォード・クリスティが、白のプーマ・キャットが描かれたコンタクトレンズを身に着け、大会前の記者会見の席に現れたのです。このプーマのコンタクトレンズキャンペーンは、現在スポーツ産業界だけでなく、他の業界においても、革新的なマーケティング手法として用いられています。

1998

スポーツブランド初の試みとして、プーマは人気デザイナーであるジル・サンダーと共に、スポーツとファッションを融合させました。サンダーとの共同開発で生まれた“キング”とランニングシューズ“イージーライダー”のライフスタイルバージョンは、人気ファッションスニーカーとしての地位を築き上げました。これら2つのモデルにおいては、プーマの信頼性とパフォーマンス性、そしてジル・サンダーのクラシックスタイルが見事に融合されています。

プーマは、セリーナ・ウィリアムズと契約を結びました。翌年彼女は、自身初となるグランドスラム制覇を全米オープンで果たします。2002年、プーマとセリーナ・ウィリアムズは、“セリーナ・ウィリアムズ・テニスコレクション”を発表しました。同年、ウィリアムズは体にぴったりと密着した“キャットスーツ”で世界中に話題を振りまくと共に、ウィンブルドンを制覇し、自身初となるランキング1位を獲得しました。

1999

プーマが“モストロ”を発売し、スポーツとライフスタイルの融合という、近年における大きなトレンドの一つを生み出しました。プーマモストロには典型的なベルクロファスナーとスパイクソールが採用されており、1968年のスプリントスパイクと80年代のサーフィンシューズが組み合わされたモデルになっています。その結果、真新しい、他に類を見ないライフスタイルシューズが生み出され、マドンナをはじめとするファッションリーダーたちの間で瞬く間に広がっていきました。2002年、マドンナはモストロと共に自身のツアーを行い、世界的な流行を引き起こしました。

00s

2001

プーマスピードキャットが発売されました。このモデルの起源はF1にあり、モータースポーツにおけるプーマの長きに渡る貢献が具現化されたモデルといえます。スピードキャットは元々F1ドライバーのための耐火シューズとして1998年に開発されましたが、革新的かつエレガントで控えめなスタイル、そしてシューズに描かれた象徴的なキャットロゴにより、すぐにファッション界でも話題となりました。

2002

プーマは、トレトングループを買収しました。トレトンは1891年にスウェーデンのヘルシンボリで創立され、ラバーブーツやフットウェア、アウターウェア、乗馬靴、テニスボールなどのパフォーマンス製品やレジャー製品を手掛けています。トレントの使命は、活動的なライフスタイル、アーバンライフスタイル、そしてカントリーライフスタイルを感化する国際的な高級スポーツウェアブランドを確立することです。

プーマの新しいセラレーターサッカースパイクである蹴道が発売されました。日韓のサッカーの祭典においては、プーマアスリートであるエル・ハジ・ディウフが、サッカーの祭典のオールスターチームに選出されました。韓国のアン・ジョンファンは、イタリア戦での“ゴールデンゴール”で名を上げ、開催国の韓国を見事準決勝に導きました。

2002-
2004

プーマのパートナーであるカメルーン代表チームがアフリカネイションズカップにスリーブレスユニフォームを着用して参加し、見事2002年のアフリカカップを獲得し、ヤウンデ(カメルーンの首都)に凱旋帰国を果たしました。

2004年、“不屈のライオン(カメルーン代表チームの愛称)”は、物議を醸したワンピース型ユニフォームであるプーマUniQTを採用しました。このユニフォームは、余計な生地を取り除いているため、相手選手による引っ張り行為を低減させることができます。

しかし、FIFAはカメルーン代表チームに規定違反があったと見なし、2006年サッカーの祭典予選から勝ち点6を減点し、チームに罰金を科しました。プーマはカメルーン代表をサポートするキャンペーンを開始し、FIFAを相手取りユニフォーム禁止に関する訴訟を起こしました。この法的な争いは最終的に和解が成立し、カメルーンにおけるサッカー開発プロジェクトへの共同寄付という形で幕を閉じました。

2004

プーマとフェラーリが複数年契約を締結し、プーマがスクーデリアフェラーリの公式サプライヤーを務めることになりました。フェラーリは、F1史上最多の優勝回数を誇るF1チームです。この契約によって、プーマはフェラーリのオフィシャルフットウェアやアパレル、アクセサリーを開発し、国際規模で販売することになりました。

2006

サッカーの祭典ドイツ大会において、32チーム中12チームがプーマ製品を着用し、同大会で最大のチームサプライヤーとなりました。また、プーマ史上初めて、プーマがサポートする代表チームがサッカーの祭典を制覇することになりました。

7月9日、ベルリンでイタリア代表がフランス代表をペナルティー戦の末5対3で破り、見事チャンピオンに輝いたのです。イタリア代表にとっては、これが4度目のサッカーの祭典におけるタイトルとなりました。 また、プーマの次なる革新も、2006年サッカーの祭典でお披露目されました。“スピードブーツV1.06”は当時の世界最軽量サッカースパイクであり、重さはたったの200グラムしかありませんでした。

2007

アパレルアクセサリー業界の世界的リーダーであるPPRグループ(現在のケリング)が、60%を超えるプーマ株を取得しました。これにより、プーマの地位をより確固たるものにすることができ、国際舞台における継続的な成長を促す礎を築くことができました。

2008

世界屈指の走行距離と難易度を誇るボルボオーシャンレースに参加するため、プーマは自社のセーリングヨット“イルモストロ”と共に、初の航海に出発しました。“セーリング界のエベレスト”の異名をとるこのレースは、世界をまたにかけて37,000海里(68,524キロ)の距離を走破するレースであり、最も過酷なスポーツイベントの一つでもあります。

北京での夏季スポーツの祭典では、プーマアスリートである“世界最速の男”ウサイン・ボルトが、100メートルで9秒69の世界記録を樹立しました。また、200メートルでも19秒30をたたき出し、96年にマイケル・ジョンソンが樹立した世界記録を100分の2秒更新し、世界新記録を打ち立てました。ボルトはジャマイカ代表チームと共に4×100メートルリレーでも金メダルを獲得し、15年前にアメリカ代表チームによって打ち立てられた世界記録をコンマ3上回る37秒10を記録しました。

2009

ウサイン・“ライトニング”・ボルトが世界陸上ベルリン大会の100メートルで9秒58をたたき出し、自身が持つ世界記録の更新に成功しました。また、200メートルでも、2008年の記録を更新する19秒19をたたき出し、見事チャンピオンに輝きました。4×100メートルリレーでもジャマイカ代表チームと共に優勝を果たし、自身のキャリアに新たな世界王座タイトルを追加しました。

10s

2010

2010年サッカーの祭典南アフリカ大会において、プーマはガーナ、カメルーン、コートジボワール、アルジェリア、イタリア、スイス、ウルグアイの7つのサッカー連盟をサポートしました。また、世界初となるコンチネンタルサッカーキット“アフリカユニティーキット”を発表しました。このキットは、プーマがサポートする全てのアフリカチームに採用されました。 プーマがゴルフ用品ブランドであるコブラゴルフを買収し、コブラプーマゴルフとしてプーマグループに統合しました。これにより、ゴルフユーザーへより幅広いゴルフ用品の提供が可能となり、更に、ゴルフ界におけるプーマの地位をより重要なものにすることができました。 2010年のPGAツアーで新人賞を受賞して以来、リッキー・ファウラーの名は、サンデー・オレンジ、素早いプレー戦術、そして次世代ゴルファーという言葉と同意語として扱われています。ファウラーは、“史上初”を具現化するプレーヤーでもあります。彼はモトクロスレーサーからプロゴルファーに転身した最初の選手であり、ライダーカップチームに選出された最初のルーキーゴルファーでもあります。

2011

プーマが欧州会社に組織変更し、プーマSEという社名での活動を開始しました。今回の組織変更により、フランツ・コッホが最高経営責任者となり、会長兼CEOとしてプーマAG(株式会社)を18年に渡って率いたヨッヘン・ザイツの地位を引き継ぎました。プーマは、自社の新たなサッカーパートナーとして、ドイツブンデスリーガ王者であるボルシア・ドルトムントを加えました。

BVB(ドルトムントの愛称)は、カリスマ監督であり、プーマパートナーでもあるユルゲン・クロップの指揮の下、プーマとのパートナーシップ元年に見事チャンピオンズリーグ決勝まで勝ち上がりました。プーマがサポートするスター選手マルコ・ロイスは、大躍進を見せるドルトムントにおいて、欠かせない役割を担っています。

2012

ロンドンで行われた夏季スポーツの祭典では、プーマのユニフォームを着用したアスリートたちが19個のメダルを獲得し、内12個のメダルはジャマイカチームによってもたらされました。2大会連続出場となったウサイン・ボルトは3つの金メダルに輝き、100メートルと200メートルの両方で2大会連続の金メダルを獲得した初の男性アスリートとなり、スポーツ界の伝説としての地位を更に強固なものにしました。

2013

プーマSEの理事会は、2013年7月1日付でノルウェー人のビヨン・グルデンを新しい最高経営責任者(CEO)に指名しました。元プロサッカー選手であるグルデンは、自身が持つ豊富な国際経験をプーマにもたらしてくれました。彼は、スポーツ用品及びフットウェア業界において、約20年のキャリアと様々な管理職経験を有しています。

プーマは、世界的にも人気が高いマリオ・バロテッリと契約を結びました。イタリア代表ストライカーであるバロテッリは、スター揃いのプーマファミリーに加わった最新の大物スポーツ選手です。

プーマファミリーには、ウサイン・ボルト、セルヒオ・アグエロ、セスク・ファブリガス、マルコ・ロイス、ラダメル・ファルカオ、そしてリッキー・ファウラーも名を連ねています。

2014

プーマが、プーマ史上最もパワフルなスパイクであるエヴォパワーを発表しました。素足が持つ自由度からインスピレーションを得ているエヴォパワーには最新のプーマテクノロジーが採用されており、選手が持つ自然なキック能力を向上させることができるだけでなく、ボールを蹴った時のパワーと正確性も高めることができます。

プーマが、アーセナルフットボールクラブと2014年7月1日付で長期契約を結んだことを発表しました。プーマは、アーセナルの名前を冠した広範囲に渡る製品群を国際規模で取り扱う権利を取得しました。今回の契約は、プーマ及びアーセナル両者の歴史において、最も大きな契約となりました。

2014年のブラジルにおけるサッカーの祭典では、プーマの革新的サッカー製品が大いに注目を集めました。8つの異なる代表チームがプーマの革新的なPWR ACTVを用いたユニフォームを着用し、画期的なエヴォパワーとエヴォスピードの最新モデルであるピンクと青の色鮮やかなサッカースパイク“トリックス”は大会全試合中72%で着用されました。この2つの革新的な製品は、人々の注目を集めると共に、多くの好意的な話題も振りまきました。

2015

リアーナがプーマのウィメンズトレーニングのグローバルアンバサダー及びプーマウィメンズクリエイティブディレクターに就任し、商品コレクションに直接関わるようになりました。また、リアーナは、プーマ代表作品のデザインやカスタマイズ、及び新たな商品ラインナップの創作も手掛けるようになりました。

イタリアサッカー連盟(FIGC)とプーマが新たな包括的パートナーシップの締結を発表し、今後10年間において、プーマがFIGCの主要パートナーを務めることになりました。また、公式サプライヤーとしてだけでなく、プーマはFIGCの販売権を拡大させると共に、FIGC製品に関わる全ての国際ライセンスを積極的に管理する独占的なマスターライセンスも保持することになりました。

スポーツカンパニーであるプーマとケリングアイウェアは、眼鏡用フレームとサングラスに関して、2016年1月から有効となるアイウェアパートナーシップ契約を締結しました。この契約締結と同時に、シャルマンとのライセンス契約は終結しました。

プーマは、商標権、特許権、デザインと共に、トレトングループを売却しました。

2016

プーマはレッドブルレーシングF1チームのサプライヤーとなり、パフォーマンスレースウェアやフットウェア、チームウェアの供給を開始しました。

フランスで開催されたUEFAユーロ2016は、プーマにとって、斬新でデザイン性の高いスポーツブランドをアピールする絶好の機会となりました。全試合の約40%でプーマ製品が用いられ、プーマがサポートする5チームは、プーマが誇るアパレルテクノロジーACTVサーモRと共に、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれました。特徴的なカラーリングが施されたプーマトリックスを着用するフランス代表のアントワーヌ・グリーズマンは、6ゴールを挙げて見事得点王に輝き、UEFAによる大会MVPにも選出されました。

プーマは、バルバドス陸上競技協会(AAB)とパートナーシップを締結しました。夏に行われたスポーツの祭典で最も注目を集めた陸上選手の一人が、ジャマイカのスプリンター、ウサイン・ボルトです。ボルトは、100メートル、200メートル、及び400メートルリレーの3種目で3連覇を果たして見事“トリプルトリプル”を達成し、自己が持つ国際陸上競技連盟(IAAF)の金メダル総獲得数の記録を11個に伸ばしました。メダル獲得数で2位となったジャマイカ代表チームの素晴らしいパフォーマンス、そしてバハマ、キューバ、グレナダ、ケイマン諸島、スイス、ドミニカ共和国を含めたプーマチームの活躍は、大会を通してプーマブランドの存在感を存分に高めてくれました。